開発ストーリー・シリーズ「開発者の思い」:第32回
『北鎌尾根』

シリーズ 『開発者の思い』 第32回
2015年02月12日

『北鎌尾根』

今回の開発者の思いでは、製品から離れて私が一番印象に残っている過去の登山について書きました。登山と製品開発の類似点、異なる点について考えていただける資料になれば幸いです。

今から36年前となる4月の上旬、大学3年生となった私は、友達の田辺邦雄君と二人で2度目の北鎌尾根縦走を目指していました。前年の11月に、大学の山サークルの先輩と同僚の3人で北鎌尾根末端から槍ヶ岳への縦走を計画し、不注意から降雪中となる北鎌の稜線でテントを焼失し、敗退した苦い経験がありました。ですから今回は何としても槍の頂上に立ちたいとの思いに駆られていました。

入山前日に新雪が降りました。北鎌の登山口となる路線バス終点の高瀬ダムに着いた時、乗客は2人しかいませんでした。バスを降りる時『悪い事は言わない、今日のような異常な積雪では山は登れないので、登山は中止した方がよい』と、バスの運転手さんが、心配そうな顔で適切なアドバイスをしてくれました。このような場合の常套手段として、私は『行ける所まで行ってみます』と答えました。

日常と異なるものを求めて、積雪期の北アルプスで3000mの急峻な尾根を縦走するのですから、新雪によるラッセルなどの困難は覚悟の上との気持ちがありました。

北鎌尾根は、加藤文太郎や松濤明(マツナミアキラ)を始めとする、多くの優秀な登山家が亡くなった場所として名前を知られた尾根です。その理由は、千上沢と天上沢に囲まれた急峻さと、尾根が長く体力を消耗しやすいことがあげられます。しかし、一番の問題は槍ヶ岳に抜けるまで、エスケープルートと呼ばれる下山ルートが無く、槍に抜けるか、尾根の取り付きに戻るしか選択肢の無いコースとなり、判断が難しくなる悪天候時に、安全地帯に退避できない事が最大の理由となっていました。

私たち2人は、大学で物理学科に所属し同じサークルで山登りを経験していました。私は中学3年生の時に、生まれ故郷に近い鳥取県の大山(だいせん)に登ったのを最初に、6年を経過して、そのころには年間で80日を費やすほど山登りに熱中していました。既に積雪期としては大山、谷川岳、八ヶ岳、富士山、北アルプスへの登山を経験しており、前の週も一人で大山(だいせん)の主脈を縦走して、烏ケ山まで1泊2日の山行を経験していました。当然ですが、積雪期の北鎌縦走はその時の二人にとって難しい挑戦と理解した上での決行でした。

バス停を降りた2人は、千上沢と天上沢の出会い(千天出会)までの沢歩きで、今までに経験のない1mを越える新雪下、トレースの無い猛烈なラッセルに直面しました。この為、出会まで2泊を要し、その後ようやく尾根の末端に取りつきました。この時、既に予定外に時間と体力を消耗していました。途中で偶然に野猿30匹程度の群れの中に入ってしまい緊張した事を覚えています。

北鎌尾根の末端は急傾斜の岩登りが連続し、3日目の終わりに、ようやく尾根末端となるピーク2に出て幕営しました。稜線上では積雪は減りますが、体力を消耗した状況下の岩稜歩きは、常に転落の危険があります。ですから、2人はアンザイレン(ザイルで結び合う事)して、急峻な場所では、どちらか一方が確保しながら、また緩斜面ではコンティニアス(アンザイレンしながら同時に登る方式)で登って行きました。

4日目でようやく中間点となる北鎌のコルに達して幕営しました。3日目の夜から体調を崩して一切食事が取れなくなった田辺君の手は、浮腫んで腕時計のバンドを外す事ができなくなっていました。素人の私にも、心臓の疲労が極限に達していると理解され、彼が動けなくなれば、2人が生きて帰れる可能性は無いと判断できました。しかし、槍まで上りきるのか?千天出会に戻った方が良いのか?迷った末に、今まで登って来た険しい山稜を体力が落ちてふらつく足で無事下山できるとは思えず、山を下るのは登るよりも危険を伴うとの判断から、前進することにしました。そして、5日目の登行を開始しましたが、この判断は疲労した状態で未知の領域に進む危険を軽視した、間違ったものでした。独立標高点直下の雪面をトラバースして通過し、その後も2人の歩みは遅く時間ばかり過ぎていきます。それまでは比較的安定した天候が続いていました。しかし、ラジオ放送から書いた天気図も天気予報も、翌日からの悪天が予測されました。新たな新雪が岩稜を覆う前に槍を抜けたいと考えていましたが、槍ヶ岳に近い北鎌平に着いた時には、体力の限界が来ており、そこで北鎌平に5回目となるテントを張りました。

翌朝、ツエルトの外を見ると予想通り新雪が20cm程度積もっていました。ルートの確定しない急な岩稜に新雪が乗ると、浮石が見えず危険です。徐々に傾斜の増す槍ヶ岳の穂先下までコンティニアスで進みました。槍への最後の急峻な登りも、私がトップでスタカット(1人が登り、相手が確保する登り方)により岩稜に取り付きました。岩屑に雪がふんわり乗って、いやな感じがしました。傾斜はありましたが、岩登りではⅢ級+程度の難易度と判断されたので、途中で中間ビレ―(支点)を取らずに20mぐらい登ると、そこから傾斜がきつくなり、行詰まりました。そこで左右に移動してルートを探していた時、左足を乗せていた大きな浮石が崩れて私はバランスを崩しました。しまったと思った瞬間、背中から落下していました。“落、落!!”と叫び、何回か岩に当たってバウンドしながら落ちて行く間、走馬灯のように過去の記憶がフラッシュバックしました。本で読んでいた通りなので、もう死ぬのだなと覚悟しました。

この墜落に至るまでの状況で、既に疲労が極限に達した田辺君は、僅かなつまずきで滑落しそうになるなど、アンザイレンしなければ大変危険な状態となっていました。何回か彼の滑落をザイルで止めていたので、この状況下で彼に私を止める余力が残っているとは思えませんでした。田辺君を巻き込み、私に引きずられて2人とも天上沢の谷底まで落ちてしまい、申し訳ないと思ったその時、衝撃があり頭を下にして雪の急斜面で止まっていました。ザイルを結んでいた腹が苦しく、その時、田辺君がザイルを制動して止めてくれたことを理解しました。この間2、3秒の出来事と推測されますが、私には大変長い時間のように感じられました。止めてもらえた事は意外でしたが、次の瞬間、左足に痛みを感じました。経験のない高度差のある転落となり、Φ11mmザイルの全長に近い40mを数回バウンドして一気に落ちたので、足が折れたと思いました。そして私が骨折して歩けなければ、2人は生きて帰れないとの不安が広がりました。張りきったザイルを中心にして、雪の斜面で体を半回転させ頭を上にしました。そして、左足で雪面を軽く踏みました。その間、もし骨折していたらとの不安に押しつぶされそうでした。次にしっかり踏ん張ってみました。左足のスパッツには外まで血が滲み、骨折はありませんでしたが、傷が深いことは明らかでした。しかし、骨折せず歩けるとの安心が、傷の大きさへの不安に勝っていました。

田辺君のいる確保地点まで登りかえして、トップを交代してもらうとすぐに槍ヶ岳の頂上に出ました。登頂した満足感はありましたが、登った頂上はホワイトアウトで展望はなく、無事下山できるかとの不安が大きくなりました。すぐに頂上から梯子を伝わり下降して、6泊目は槍ヶ岳直下、肩の小屋の避難小屋泊まりとなりました。この日は朝から1日で、北鎌平から槍までのわずかな距離しか移動できませんでした。避難小屋の室内は冷蔵庫のフリーザの中のようで、天井にはツララが多数ぶら下がっていた事を覚えています。怪我は向う脛の骨が長さ5cm程度陥没しており、骨の内部が見えていました。おそらく転落時にピッケルのツアッケが当たったと思われます。怪我の割には出血は最初だけでその後はありませんでした。何回か墜落を見た経験から、落ちた日は夜に震えが来る事は知っていましたが、私もその夜は墜落で受けた精神的なダメージから、一晩中震えが止まらず眠ることができませんでした。

当初は奥穂方面への縦走を予定していたと記憶しますが、日程的にも体力的にも、これ以上縦走することができないのは明らかでした。しかし、最短時間で下山できる槍沢を経由した上高地への沢沿いのコースは、雪崩の巣です。この季節に槍沢を下山するなど登山をする人から見ると、言語道断&無謀と言われる行為となります。私たちには無事に下山するための選択肢は残っていませんでした。そこで翌朝午前3時に2人は避難小屋を出発して雪崩が発生する前に、傾斜のきつい槍沢上部を一気に下降しました。途中は雪崩の跡となる大きな雪のブロックの積み上がったデブリが、すべての枝沢と槍沢の合流点に溜まっていて、日が出てからの底雪崩の激しい事が分かりました。危険地帯を過ぎ、その日中に下山したいと思い、横尾から徳沢へと進みました。徳沢からはトレースのある道となり単独行の人にも会いました。しかし上高地まで下りても人の気配は無く、やむなく沢渡を目指しました。結局7日目は、避難小屋を出発した朝3時から夜8時までの17時間で約40kmの雪道を歩き、路線バスの終点となる沢渡から3.5km上流の河原で夜を迎えました。この日の最後に歩いた道路上で積雪が無くなった時、1週間雪上を歩き続けていたので、雪の無い道路を硬く感じ、違和感があり、うまく歩けなかったことを覚えています。

入山後8日目となる翌日、ようやく沢渡に下山してバスと松本電鉄を経由して松本の病院に行きました。先生は怪我が化膿して縫う事はできないと言われ、消毒してガーゼと包帯で覆ってくれました。

その後も山登りを続け今日に至りましたが、学生時代には周囲で遭難事故が起き、人を連れて歩くことにためらいを感じ、また自分の登りたいところに行きたいとの欲求が強くなり、以降は単独行を目指すようになりました。1回目の北鎌に同行した友達が、数年後に山で亡くなるなど悲しい出来事もありました。山と言う圧倒的な自然は、多くの事を経験させてくれました。また物事を考えるきっかけを与えてくれました。多くの登山を行い、雪山での緊急ビバークもその後何度か経験しましたが、その中でも、23歳で登った北鎌尾根は最も長く厳しい山行として、36年を経た私の記憶に残っています。

北鎌尾根からの帰還は、偶然の重なりによる幸運が大きかったと思っています。また、この山行の反省すべき問題点として、①前年の晩秋のトライに失敗しながら、無雪期の北鎌を登らずに、北鎌を縦走した経験のない2人で、積雪期に再トライしたこと ②途中で引き返す機会があり、そうすべきであったのに判断を間違え登頂を強行した事、③4月を選んだ理由が、真冬の下見の意味を持ち、その意味では山を甘く見ていた、などがあげられます。また一方で、これらの経験は現在の自分を構成する重要な事象であったとも考えられます。

この山行から、冒険的山行で無事に下山するには、幸運の偶然に頼らず、しっかりした目標設定を行い、それを実現するための準備と心構えを持ち、事に当たって臨機応変な対応を行い、これらを達成するためのベースとなる熱意を維持するなど、重要な要因すべてが不可欠である事が理解されます。

一方、今までに経験したことのない新製品の企画&開発を成功させ、販売実績を積むには、冒険的な登山に必要になるのと同様な構成要素が不可欠であり、それは山行と共通していると考えています。新製品開発と登山の違いとしては、製品開発に失敗しても、その事が生物学的な死に直結しないことがあげられます。特に開発主導の企業では、開発目標の設定と製品開発に対する熱意、及び目標達成の障害に対する臨機応変で合理的な対応が重要になると判断されます。また、新しい市場での新しい商品販売についても、成功を得る為には、まずは目標を設定し戦略を練ってから事に当たるなど、熱意を基本とした同様な手法の確立と実践が不可欠であると判断されます。 

湯俣付近の河原から見た、北鎌尾根の全景と独標

(第一設計開発本部 第5部出雲直人)