開発ストーリー・シリーズ「開発者の思い」:第40回
『台湾と玉山登山』
『台湾と玉山登山』
2010年4月から書き始めて、丸6年となる開発者の思い第40回では、電動ピペットの開発過程と山登りについて書かせてもらいました。
仕事で最初に台湾を訪問してから、約20年の歳月が過ぎました。当時A&Dは台北にある商社の1部屋を借りて、天びん他の部品調達を目的に、3名が常駐する駐在所を開設しました。私は技術のオブザーバとして天びん関連の部品調達を担当し、台中のダイカストや切削加工メーカを訪問するために、年数回台湾を訪問していました。そして金型の打ち合わせから、完成した部品の日本国内への導入を試みました。
しかし、当時、台湾の生産技術は未熟で、数年をかけて行った部品調達はいずれも失敗し、継続的な取引に展開する事はできませんでした。数千万円の金型費用や多額の渡航費を失った経験から、日本国内でも調達が難しい重要部品は、海外ではより一層生産が困難である事。当然ですが国民気質や文化は各国で異なり、それを理解していなければ、その国の人と良い協力関係を作り、有意義な仕事をする事は不可能であると言う事をこの失敗から学びました。そして、それ以降は単に仕事を行うだけでなく、その国や地域の文化と歴史に接し、文化の重要部分となる食べ物については、現地でしか食べられない物を優先して食べるようになりました。食べ物の趣向は個人のアイデンティティーに関わりますが、今まで食べた事の無い食べ物を食べるか、または食べないかの判断は、開発業務に関する適・不適を表しています。それは、現地の食べ物に消極的な開発者は、新しい開発テーマにも尻込みする傾向がある為です。つまり開発者には絶えず冒険を望む精神が要求され、それが食べ物に顕著に表れるのです。
その後も台湾にある代理店を窓口として、新製品を中心とした市場での拡販活動を継続して進めました。特にマイクロピペット用となる容量テスターの販売では、新規市場開拓の為、欧州からアジアに出向いていました。その一環として台湾中部から台北まで、製薬会社や食品会社、材料メーカなどを順番に訪問し、最後に台北のピペットメーカを訪問しました。その日も3社を訪問し、新製品となるマイクロピペットの管理ツールを説明して歩きました。説明した顧客からは、機器に関する評価や判断も聞けず、前日同様に確たる成果の得られない一日となっていました。そして、その日の最後に、代理店が設定したピペットメーカA社にピペット管理ツールを提案しました。
それは、経験の長い業界のプロに、経験数年のアマチュアが技術的な内容を説明するような状況でした。ピペット管理ツールの提案をピペットメーカに行うのも初めてでした。相手の反応が予測できず、私には荷が重く、不安な客先訪問となっていましたが、気が進まない中、失敗しても何かが得られるだろうと考え『とりあえず、やってみよう』とデモを行ったのです。
デモの結果は予想外で、拒絶されると思っていたのに、話が盛り上がりました。それは、A社が大変謙虚で、またテクノロジーをベースとした開放的な話ができる、技術者集団であった為でした。対等なポジションとなるメーカとメーカの関係は、ほとんどの場合うまくまとまりません。それは、お互いの文化や技術のベクトルが合わない事、メーカのほとんどの技術者はプライドが高く、また大変頭が固く、その硬さは石以上で『ダイヤモンドヘッド』と呼ばれるほどに、他者の意見を聞く耳を持っていないのが一般的なのです。A社とは言葉の障壁があっても、過去、日本を含めた色々なメーカの中で、最高のベクトルの一致を感じることができたのです。
ピペット管理ツールの拡販活動を通して、自ら企画し今まで市場に無かった新製品が、一向に売れない事を経験していました。しかし、販売活動を通して次第にピペットを知るようになり、ピペットそのものが持つ多くの問題点も理解していました。そこに、大変フレンドリーな台北のピペットメーカと巡り合えたのです。
一方では、計量器関連で競合となる海外の2社が、数十億から数百億という莫大な資金を投じて欧米のピペットメーカを買収し、既に傘下に入れていました。その結果、競合他社の販売しているピペットが、自社にだけ製品として揃っていない状態が数年間続いていました。そして、この状況を何とかして打開するのが、私の責務であると考えていました。
台北から日本へ帰る機内で、また今後の展開について考えていると、何とかしなければとの思いがA社と結びつき、良いアイデアが浮かびました。それは『オリジナル仕様となるピペットを、この会社に生産依頼して商品化する』というものでした。この閃きが2年後の電動ピペットMPAシリーズの商品化に繋がりました。
すぐに機内で新しい電動ピぺットのデザイン図を描き、成田に着くまでに製品のコンセプトを完成させました。
その後、国内メーカとして唯一となる汎用タイプの電動ピペット開発の為に、頻繁に台湾を訪問するようになりました。そして、ある時、帰りの空港で玉山(ぎょく山)の大きな写真を見てから、玉山に登りたいと思い、その思いは次第に大きくなりました。玉山は日本が台湾を統治した時代には新高山と呼ばれ、その意味するところは富士山より高い、新しい山となります。『ニイタカヤマノボレ』が真珠湾攻撃決行の暗号として利用された事は有名です。
玉山の標高3952mは富士山より176m高く、西方の尾根から見た玉山は、南アルプスの北岳や塩見岳に似て、頂上直下の顕著な胸壁:バットレスが印象的な山となっています。
MPAの量産が軌道に乗り、少なくても当初予想した数量よりも一桁多い販売となった昨年の9月、このピペットメーカの社長さんのお世話により、玉山登山の申請を行ってもらいました。2グループで申請した結果、抽選で日本人の1グループに登山許可が下りました。そこで、日本人の有志5人で台湾に向かいました。標高2600mとなる登山口まで車で行き、そこから水平距離約10km×標高差約1300mの登山を開始しました。
玉山登山にはガイドを付ける必要があり、山頂下の山小屋に宿泊する1泊2日の山旅になります。緯度が低いので樹林限界が3600mと高く、最後の標高差300m程度が岩山となり傾斜も増しますが、登山道は良く整備されており危険は少ない山です。しかし、標高の高い3600m付近での宿泊は、酸素が平地の6割程度となるので、長時間滞在すると高山病になる危険が増えます。歳のせいもあると思いますが、私も行程以上に疲れて、翌日AM2時に起床した時には吐き気があり、最悪な状態でした。朝食の肉まんを無理にのどに押し込み、3時過ぎに山小屋を出発しました。周囲が次第に明るくなる中、岩場を登り切ると玉山の頂上に達しました。朝日を受けて青色に染まった周囲の山々に、玉山の影が写っており、周囲360°の神々しい景色を堪能することができました。
登山も製品開発も状況が困難なほど、達成時の満足感は大きくなります。今現在、開発したピペットの販売は、未だ成功したと言える状況には至っていません。しかし、台湾のメーカと技術や生産に関わる連携を一層強め、製品群を拡充し、また販社との新しい関係を構築して、今後の拡販につなげる事ができると考えています。